晴明年表

921年        安倍晴明公誕生

923年 3月14日 晴明降誕

一般的に安倍晴明の出生は、享年から逆算して921年とされていますが、このような記載もあるようです。

939年        賀茂光栄誕生

  • 賀茂光栄誕生(「陰陽師安倍晴明(志村有弘)」?

944(天慶7)    阿倍晴明生まれる(後、阿倍本流に入る) ?

暦会館 土御門家に関する年表より

950年(天暦4年)この頃、陰陽寮官人を「陰陽師」と通称する例あり

  • この頃、陰陽寮官人を「陰陽師」と通称する例あり(『安倍晴明と陰陽道展』図録)

957年(天徳元年)この頃、賀茂保憲は陰陽頭在任

  • この頃、賀茂保憲?陰陽頭?在任(『安倍晴明と陰陽道展』図録)

960年        内裏焼失により大刀契を紛失する。晴明公勘文をたてまつり、その功により天徳五年に再鋳し事なきを得る。天徳改鋳の霊剣は賀茂保憲によることは明らかとの異説あり。

  • 晴明が歴史上初登場してくる.陰陽寮の学生であった晴明は天皇の前に呼ばれ、宮中の宣陽殿?に所蔵されていた節刀?について言上.(「安倍晴明伝説(諏訪春雄)」) 節刀は先の内裏焼亡?で失われていた.
  • 天徳4年(西暦960年)晴明、天文得業生?。内裏火災によって焼損した霊剣?の文様について勘申。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18 安倍晴明年譜)
  • 天徳4年(960)12月12日 天徳四年の内裏焼亡?時に節刀?大刀契?)を失う。陰陽師晴明、村上天皇?の勅命を奉じて再鋳する。晴明公このとき天文得業生?で、宣旨を奉じすすめ作らせる。(『中右記』嘉保元年(1094)11月2日条裏書)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 天徳四年、内裏焼失?により大刀契?を紛失する。晴明公勘文をたてまつり、その功により天徳五年に再鋳し事なきを得る。(『左大史小槻季継記』?安貞二年(1228)1月11日条)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 天徳改鋳?霊剣?賀茂保憲?によることは明らかとの異説あり。晴明公は保憲の弟子として、その器量により天文の事を晴明公に授け、暦道?の事は賀茂家?が伝える。(左大史小槻季継記』安貞二年(1228)1月24日条)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 天徳4(960)天文得業生?.40歳.内裏の火災で焼損した霊剣?の図を勘申する.典拠:中右記?若杉家文書「陰陽道の発見(山下克明)」

960年12月12日 晴明、天文得業生(~29日)

  • 960.12.12-29 天文得業生? 出典:『中右記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」)
  • 天徳四年(960) 天文得生?(典拠:中右記)「安倍晴明公(晴明神社編)」
  • 天徳4年(960)12月12日 天徳四年の内裏焼亡?時に節刀?大刀契?)を失う。陰陽師晴明、村上天皇?の勅命を奉じて再鋳する。晴明公このとき天文得業生?で、宣旨を奉じすすめ作らせる。(『中右記』嘉保元年(1094)11月2日条裏書)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

961年        晴明、大刀契五帝神祭に奉礼として関与

  • 晴明、大刀契五帝神祭?奉礼?として関与 出典:『若杉家文書』?(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表より)
  • 応和元年辛酉(九六一)大刀契五帝神祭?奉礼?として関与『若杉家文書』(「安倍晴明公(晴明神社編)」より)
  • 応和元年(西暦961年)晴明41歳 6月28日 霊剣再鋳造に際して、高雄山神護寺の五帝祭に奉仕(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 応和元年(961)6月 天文得業生?.41歳.神護寺での霊剣鋳造にさいし賀茂保憲?の元で五帝祭に奉仕 典拠・中右記・若杉家文書 「陰陽道の発見(山下克明)」

961年        晴明、陰陽師.(任官)

  • 『続群書類従本安倍氏系図』(「陰陽道の発見(山下克明)」)

963年(応和3年) 賀茂保憲、雨乞いのための五龍祭を行う.

  • 963年(応和3年) 賀茂保憲?、雨乞いのための五龍祭を行う.(『安倍晴明と陰陽道展』図録(典拠記載なし))

967年 6月23日 晴明、陰陽師として政始の日時の勘文を進ずる

  • 康保四年六月廿三日(ユリウス暦に換算して967年8月1日) 陰陽師として政始の日時の勘文を進ずる(典拠:『本朝世紀』)(「安倍晴明公(晴明神社編)」
  • 康保四年(西暦967年)晴明、陰陽師の官職。47歳。6月23日政始めの日時を選ぶ(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 陰陽師晴明、政始の日時勘文を進める。康保四年(967)6月23日/7月15日(『本朝世紀』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 康保四年(967)6月13日陰陽師.47歳.外記局の政始めの日時を選ぶ 典拠:『本朝世紀』「陰陽道の発見(山下克明)」

967年 7月15日 陰陽師晴明、政始の日時勘文を進める

  • 陰陽師晴明、政始の日時勘文を進める。康保四年(967)6月23日/7月15日(『本朝世紀』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

968(安和元)    晴明、朝廷に出仕(25歳) ?

暦会館 土御門家に関する年表より

970年(天禄元年)晴明、陰陽少属?(任官)

  • 典拠:『続群書類従本安倍氏系図』「陰陽道の発見(山下克明)」

971年(天禄二年)晴明、天文博士?(兼任)

  • 典拠:『続群書類従本安倍氏系図』「陰陽道の発見(山下克明)」
  • (『安倍晴明と陰陽道展』図録)では972年(天禄3年)この頃、安倍晴明は天文博士在任。と記載されている。整合性はあるが、ややずれている。典拠記載なし。

972年12月 6日 晴明、触穢により右兵衛陣外にて天文奏(四角祭執行を進言)

  • 天禄三年十二月六日(ユリウス暦に換算して973年 1月13日) 触穢により右兵衛陣外?にて天文奏?四角祭?執行を進言) (典拠:『親信卿記事』)(「安倍晴明公(晴明神社編)」より)
  • 天禄三年(西暦972年)晴明52歳、天文博士?。12月6日 天変により天文密奏?。また四角祭?執行を奏上 (「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 天文博士?安倍晴明、触穢により天文奏?を行う。天禄三年(972)12月6日(『親信卿記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

973年        晴明、天文博士(~975年)

  • 天禄三年~天延二年(ユリウス暦に換算して973-975) 天文博士?(『親信卿記』)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p191)(*天禄三年は西暦九七二年と一般的には表記されるが、天禄三年十二月は西暦では既に九七三年に入っている。)

973年 1月 9日 天文博士晴明、変異により天文奏を行う

  • 天延元年正月九日(ユリウス暦に換算して973年2月14日) 天文の異変を奏す(二日白虹が日をとりまき、五日白気が艮坤の方角にわたり、七日土星がふたご座の東井第五星に接近)  典拠:『親信卿記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192より)
  • 天延元年(西暦973年)晴明53歳、天文博士?。1月9日天変により天文密奏?「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 天文博士?晴明、変異により天文奏?を行う。天延元年(973)正月9日(『親信卿記』)(「安倍晴明公の史料」(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

973年 4月19日 晴明、天文密奏

  • 天延元年四月十九日(ユリウス暦に換算して973年5月23日) 天文密奏?(昨夜の月による南斗建星の星食について)典拠:『親信卿記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192より)

973年 5月19日 大暴風により被害あり晴明公勘文を進む

  • 天延元年五月十九日(ユリウス暦に換算して973年6月22日) 風による被害に対する勘文  典拠:『河海抄』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192より)
  • 大暴風により被害あり晴明公勘文を進む。天延元年(973)5月19日(『河海抄』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 暴風雨で宮中屋舎転倒するにより上申す 典拠:『河海抄』「陰陽道の発見(山下克明)」

973年 6月11日 円融天皇、神今食のための中院行幸に際し、晴明宿禰小反閉を奉仕する(物忌)

  • 円融天皇?のため、小反閇?奉仕(物忌) 出典『親信卿記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 天延元年六月十一日(ユリウス暦に換算して973年7月13日)円融天皇?のため、小反閇?奉仕(物忌) 『親信卿記』「安倍晴明公(晴明神社編)」p192
  • 円融天皇?、神今食のための中院行幸に際し、晴明宿禰小反閉?を奉仕する。天延元年(973)6月11日(『親信卿記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 天延元年(西暦973年) 6月11日 物忌について、覆推勘申(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)

974年 5月14日 晴明、賀茂保憲に従い大乗院転地のため比叡山に登山。二日後、保憲と共に転地勘文に署名し提出する

  • 974年5月13日 賀茂保憲?と共に大乗院?転地のため比叡山?に登山 出典『親信卿記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 「安倍晴明公(晴明神社編)」p192では、天延二年五月十四日(974年6月6日(ユリウス暦に換算)) 賀茂保憲?と共に大乗院?点地のため比叡山?に登山する 典拠:『親信卿記』と、日付が違っている?
  • 天延二年(西暦974年)晴明54歳、天文博士?。5月14日 主計頭賀茂保憲?に従って、比叡山延暦寺?に登り、大乗院?建立の相地。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)・・・14日の方があっているようですね
  • 比叡山?に御願寺の大乗院?を建立するに先立ち、点地のため賀茂保憲?に従い登山。二日後、保憲と共に転地勘文に署名し提出する。天延二年(974)5月14日(『親信卿記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

974年 6月12日 晴明宿禰、河臨御禊奉仕

  • 天延二年六月十二日(ユリウス暦に換算して974年7月4日)河臨御禊?奉仕 典拠:『親信卿記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192)
  • 晴明宿禰、河臨御禊?を奉仕する。天延二年(974)6月12日(『親信卿記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

974年12月 3日 晴明、天文密奏(鎮星と鬼宿第四星の接近について)

  • 晴明、天文密奏?鎮星鬼宿?第四星の接近について) 『親信卿記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 天延二年十二月三日(ユリウス暦に換算して975年1月17日) 天文密奏?鎮星(=土星)と鬼宿?第四星(=蟹座θ星)の接近について)典拠:『親信卿記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192)
  • 晴明公、天文密奏?を行う。天延二年(974)12月3日(『親信卿記』)(『天延二年記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

977年 2月22日 賀茂保憲没する

  • 賀茂保憲?没する(日本史年表より)

978年 7月24日 晴明宅に雷震が有り、家破損

  • 晴明宅に雷震が有り、家破損。日本紀略(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)

979年        晴明、花山天皇の命令で那智山の天狗を封ずる

  • 晴明、花山天皇?の命令で那智山?の天狗を封ずる。『禅林応制詩』(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 「これまで一部の著作に誤った引用も多くみられ、たとえば『禅林応制詩』の採用など、『大日本史料』の杜撰な孫引きにすぎない」(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建))とあるが、この記事のことだろうか?

979年 5月26日 晴明、『占事略決』を著す

  • 晴明、『占事略決?』を著す(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 天元二年五月廿六日(ユリウス暦に換算して979年6月23日) 『占事略決?』を著わす(典拠:『占事略決』)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192より)
  • 晴明公、『占事略決?』を執筆し、三十六の占い法を示す。天元二年(979)5月26日(『占事略決』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 占事略决を撰す 典拠:『占事略決奥書』「陰陽道の発見(山下克明)」

980年 9月28日 源博雅(63) 没

  • 源博雅(63)没する(日本史年表より)

982年10月    池亭記(慶滋保胤)できる

  • 池亭記?慶滋保胤?)できる(日本史年表より)

984年 7月27日 譲位・立太子の日時を文道光・晴明等、勘申。しかし重日に当たるため先例を検討し東宮と円融天皇の御内慮を経る。廿八日「陰陽家の申すところ甚だ不当なり」として改めて勘申のため晴明公参入。来月廿七日が吉日と応える。廿九日、道光・晴明朝臣達は譲位・立太子の日時勘文を持参し決定する。

  • 晴明は、円融天皇?譲位の日時を「来月28日」と答え、翌29日、道光?らと共に譲位・立太子の勘文等を小野宮実資?のもとに持参する。大日本史料所引「小野宮右府記」(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 984年7月27日-29日 天皇譲位・立太子の日時勘申内容の変更 『小右記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 永観二年七月廿七日~廿九日(ユリウス暦に換算して984年8月26日~28日)天皇譲位・立太子の日時勘申内容の変更 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」)p193
  • 譲位・立太子の日時を文道光と共に勘申する。しかし重日に当たるため先例を検討し東宮と円融天皇?の御内慮を経る。「陰陽家の申すところ甚だ不当なり」として改めて勘申のため晴明公参入。来月廿七日が吉日と応える。翌日、道光?・晴明朝臣達は譲位・立太子の日時勘文を持参し決定する。永観二年(984)7月27~29日(『園太暦』文和三年八月二日条(『小右記』逸文))(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

985年 4月18日 賀茂光栄、藤原実資室のお産のために解除を行う

  • 賀茂光栄藤原実資?室のお産のために解除?を行う.『小右記』?(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 大臣藤原実資?の女房の産期が遅れ、前日の賀茂光栄に続き晴明公も解除?を奉仕する。寛和元年(985)4月19日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

985年 4月19日 晴明、藤原実資室のお産のために解除を行う

  • 985年4月19日 晴明、藤原実資?室のお産のために解除?を行う.『小右記』?(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表では、983年の項目として、「藤原実資?室の産気の遅れのための解除?を行う 出典『小右記』」とある。
  • 寛和元年四月十九日(ユリウス暦に換算して985年5月11日)典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192)
  • 大臣藤原実資?の女房の産期が遅れ、前日の賀茂光栄に続き晴明公も解除?を奉仕する。寛和元年(985)4月19日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

985年 5月29日 晴明、花山天皇の錫じょを除く日を答えるが用いられず

  • 天皇(花山)の錫じょ(天皇が二親等以内の親族の喪に服する時に着る浅黒色の闕腋の袍)を除く日を問われて、明日の寅の剋の初めがよいと答える。小右記?(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 花山天皇?錫紵?の日時勘申 出典『小右記?』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 寛和元年五月廿九日(ユリウス暦に換算して975年6月20日) 花山天皇?錫紵?の日時勘申(「安倍晴明公(晴明神社編)」)p193
  • 花山天皇?、御錫紵?(薄墨色の天皇の喪服)を除かれる。晴明公、復日を避け明日を進言するも用いられず。寛和元年(985)5月29日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

985年11月    晴明、大嘗会の吉志舞の奉行をする

  • 985年11月晴明、大嘗会?吉志舞?(古代の舞楽の名.神功皇后が朝鮮半島から帰り、大嘗会を行った時に初めて奏したといい、奈良・平安時代に安倍氏が奉行したが、室町時代中期頃に廃絶した)の奉行をする。園太暦(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 では、986年「大嘗会?吉志舞?奉行 『園太暦』」となっている。
  • 寛和元年十一月廿四日(ユリウス暦に換算して986年1月7日)大嘗会?吉志舞?奉行 典拠:『園太暦』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p192)となっているので、上記二つとも間違いではないようだ。
  • 大嘗会?において晴明朝臣吉志舞?を奉行する。寛和元年(985)11月24日(『園太暦』文和三年11月17日条)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

985年(寛和元年) 晴明、主計?権助(兼任)

  • 典拠:『続群書類従本安倍氏系図』(「陰陽道の発見(山下克明)」)

986年 2月16日 晴明、天文博士。正五位下。太政官正庁内の蛇を占い攮法を修する

  • 晴明、正五位下。太政官正庁内の蛇を占う『本朝世紀』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 寛和二年二月十六日(ユリウス暦に換算して986年3月28日)正五位下、太政官正庁内の蛇を占う 典拠:『本朝世紀』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p193より)
  • 寛和二年2月16日 太政官正庁の母屋の怪異?を占う。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 太政官に怪あり、天文博士正五位下安倍朝臣晴明、占いを行い、攮法を修する。寛和二年(986)二月十六日(『本朝世紀』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

986年 2月27日 晴明、太政官正庁内に入った鴿について占い攮法を修する

  • 晴明、太政官正庁内に入った鴿?について占う 『本朝世紀』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 寛和二年二月廿七日(ユリウス暦に換算して986年4月8日)太政官正庁内に入った鴿?について占う  典拠:『本朝世紀』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p193)
  • 寛和二年(西暦986年)2月27日 再び太政官正庁母屋の怪異?を占う。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 再び、正庁母屋内で怪あり、晴明公占い、攮法を修する。寛和二年(986)二月廿七日(『本朝世紀』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

986年 6月23日 晴明、星を見て花山天皇?の譲位を知る

  • 大鏡?ではこの時天皇は晴明宅の前を通り、晴明が星を見て譲位を知り、「式神参れ」と命じる声が聞こえたことになっている.

987年 2月19日 晴明、一条天皇、直衣で凝華舎より清涼殿へお移りの時、反閇奉仕

  • 晴明一条天皇?のため、反閇?奉仕 出典:『小右記?』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 永延元年二月十九日(ユリウス暦に換算して987年3月21日)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p193より)
  • 永延元年(西暦987年)2月19日一条天皇?清涼殿?遷御に際して反閇?を奉仕(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 一条天皇?直衣?凝華舎?より清涼殿?へお移りの時、反閉?を奉仕する。永延元年(987)2月19日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

987年 3月21日 藤原実資、二条第へ渡るに際し、晴明反閇奉仕

  • 晴明、藤原実資?のため、反閇?奉仕 『小右記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 永延元年三月廿一日(ユリウス暦に換算して987年4月21日)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p193より)
  • 永延元年(西暦987年)3月21日 藤原実資?二条邸?へ渡るとき反閇?を奉仕(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18)
  • 藤原実資?二条第?へ渡るに際し晴明朝臣反閉?を奉仕する。永延元年(987)三月廿一日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 藤原実資?の転居により反閇?を行う 典拠『小右記』(「陰陽道の発見(山下克明)」)

988年 7月 4日 晴明、藤原実資の娘のため、鬼気祭執行

  • 藤原実資?の娘のため、鬼気祭執行  『小右記』 (「安倍晴明伝説(高原豊明)」(安倍晴明年表))
  • 永延二年七月四日(ユリウス暦に換算して988年8月18日)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 夜、藤原実質?の女児のため晴明朝臣をして鬼気祭行わせる。永延二年(988)7月4日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

988年 8月 5日 凶星の蛍惑星が通常の軌道を逸脱する

  • この年(永祚2年、988年)の8月5日、凶星の蛍惑星が通常の軌道を逸脱すると言う天文の異変が起こり、天皇・皇后ともに重い物忌み?に入り、天台の座主の尋禅?陰陽道晴明には祈祷の呪法が命じられた.尋禅?は早速其の祈祷に従事したが、晴明はすぐに取り掛からなかったために、18日なって始末書を提出させられた.そのように『小右記?』に書かれている.(安倍晴明伝説(諏訪春雄)参照)

988年 8月 7日 晴明、熒惑星祭の日時勘申する。祭は奉仕せず

  • 永延二年八月七日(ユリウス暦に換算して988年9月20日)熒惑星祭?の日時勘申する。祭は奉仕せず 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 熒惑星?により一条天皇?と皇后は慎まれ、延暦寺惣持院?熾盛光法?を修し、一方熒惑星祭?につき晴明公、日時勘申す。但し祭事は奉仕せず。永延二年(988)八月七日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

988年 8月18日 晴明、熒惑星御祭に奉仕しなかった為に過剰を提出

  • 永祚二年988年8月18日 熒惑星?御祭に奉仕しなかった為に過剰を提出。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p18
  • この年(永祚2年、988年)の8月5日、凶星の蛍惑星?が通常の起動を逸脱すると言う天文の異変が起こり、天皇・皇后ともに重い物忌みに入り、天台の座主の尋禅?]と陰陽道の晴明には祈祷の呪法が命じられた.尋禅?は早速其の祈祷に従事したが、晴明はすぐに取り掛からなかったために、18日なって始末書を提出させられた.そのように『小右記』に書かれている.(安倍晴明伝説(諏訪春雄)参照)

989年 1月 6日 晴明、一条天皇の御悩を占う

  • 永祚元年正月六日(ユリウス暦に換算して989年2月14日)一条天皇?の御悩を占う 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 永祚元年(西暦989年)晴明公69歳。1月6日一条天皇?の病気の原因について占う。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p19
  • 一条天皇?御悩により、御占を奉仕する。永祚元年(989)正月六日~七日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

989年 1月 7日 晴明、一条天皇のため御禊を奉仕

  • 永祚元年正月七日(ユリウス暦に換算して989年2月15日)一条天皇?のため御禊?を奉仕 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 永祚元年(989年)1月7日 一条天皇?紫宸殿?出御に際して御禊?を奉仕。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p19
  • 一条天皇?御悩により、御占を奉仕する。永祚元年(989)正月六日~七日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

989年 2月11日 皇太后御悩により尊勝法・泰山府君祭の日を勘申し、晴明公は泰山府君祭を奉仕する。

  • 皇太后・藤原詮子?のため、泰山府君祭執行 『小右記』『日本紀略』 (「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 永祚元年二月十一日(ユリウス暦に換算して989年3月20日)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 永祚元年(989年)2月11日 一条天皇のために泰山府君祭を行う。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p19・・・上記とは記載が異なっているようです。要確認●。
  • 皇太后御悩により尊勝法・泰山府君祭の日を勘申し、晴明公は泰山府君祭を奉仕する。永祚元年(989)二月十一日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 皇太后藤原詮子の病により泰山府君祭を行う 典拠:『小右記』(「陰陽道の発見(山下克明)」)

989年 2月16日 晴明、一条天皇のため、円融寺への朝観行幸に祭し、南殿において反閉を奉仕する。

  • 一条天皇?のため、反閇?奉仕 『小右記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 永祚元年二月十六日(ユリウス暦に換算して989年3月25日)  一条天皇のため、反閇奉仕 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194)
  • 円融寺への朝観行幸に祭し、南殿において反閉を奉仕する。永祚元年(989)2月16日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

993年 2月 3日 晴明朝臣、一条天皇に御禊奉仕した効験のため正五位上へ加階

  • 正暦四年二月三日(ユリウス暦に換算して993年2月26日)突然の一条天皇の御悩に際し、御禊を奉仕したところ、忽ち効験があったため、正五位上へ加階された 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 正暦四年(993年)2月3日 一条天皇のために勤めた御禊に験があり加階される。それを実資に報告。(「陰陽道の神々(斎藤英喜)」p19
  • 晴明朝臣、一条天皇にわかの御悩で仰せにより御禊奉仕、たちまち験あり、一階を加え正五位上となる。正暦四年(993)二月三日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 正暦四年(993年)二月二日 晴明、正五位上。七三歳.天皇のために行う御禊、験あり位階を上す 典拠:小右記(「陰陽道の発見(山下克明)」)*この記事だけ、日付が違う.

994年        晴明、正五位上。

  • 正五位上。勘申により大極殿で仁王経が講される 『本朝世紀』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)

994年 5月 7日 洛中に疫病死者が蔓延したため、八省大極殿に百高座を立て仁王経を読誦する事を、前天文博士安倍晴明の勘申によって行う

  • 正五位上。勘申により大極殿で仁王経が講される 『本朝世紀』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 洛中に疫病死者が蔓延したため、八省大極殿に百高座を立て仁王経を読誦する事を、前天文博士安倍晴明の勘申によって行う。正暦五年(994)五月七日(『本朝世紀))(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 正暦五年五月七日(ユリウス暦に換算して995年6月18日)都で疫癘流行のため、今月十五日大極殿にて仁王経を講読すべき旨勘申 典拠:『本朝世紀』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 臨時仁王会の日時を選ぶ 典拠:本朝世紀(「陰陽道の発見(山下克明)」)

995年        安倍晴明、能満寺に蘇鉄を植えたといわれる。

995年 8月 1日        晴明、主計権助・蔵人所陰陽師

  • 晴明、主計権助・蔵人所陰陽師 出典『朝野群載』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 長徳元年(995年)主計権助・蔵人所陰陽師 典拠:『朝野群載』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 主計権助晴明、正六位上で蔵人所月奏に記される。長徳元年(995)八月一日(『朝野群載』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 長徳元年(九九五)八月一日 一条天皇の蔵人所陰陽師として所見 典拠:朝野群載(「陰陽道の発見(山下克明)」)

995年10月17日 晴明、先例により、雷雨のための、御卜の停止を勘申

  • 先例により、雷雨のための、御卜の停止を勘申 『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表 より)
  • 長徳元年十月十七日(ユリウス暦に換算して995年11月12日)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p194より)
  • 雷鳴により天文道変異勘文を進める。長徳元年(995)10月17日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 長徳元年(九九五)十二月一九日 天文道が雷の上申を行うので、御占は止めるべきと申す 典拠:権記(「陰陽道の発見(山下克明)」)*これだけ、日付が異なる.

997年        晴明、備中介(~998年)、正五位上行権助兼備中介

  • 備中介?大間成文抄?』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長徳三年~長徳四年(ユリウス暦に換算して997年~98年) 備中介 典拠:『大間成文抄』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p195)
  • 安倍朝臣晴明、正五位上行権助兼備中介 長徳三年(997)正月廿五日(『除目大成抄』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

997年(長徳3年)正月25日  主計寮の任官申請文書に署名する

  •  典拠:除目大成抄(「陰陽道の発見(山下克明)」)

997年 3月21日 晴明・光栄、平野社御竈神社殿の造成日時の勘申の命

  • 平野社御竈神社殿の造成日時の勘申の命 『中右記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長徳三年三月廿一日(ユリウス暦に換算して997年4月30日) 平野社御竈神社殿の造立日時の勘申 典拠:『中右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p195)
  • 陰陽師晴明、光栄と共に、失われている内膳司御竈神三所の内、平野神の神殿造立の日時を勘申する。 長徳三年(997)三月廿一日(『中右記』寛治八年(1094)11月11日条裏書)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

997年(長徳三年)5月24日  晴明、消失した内侍所の霊剣の鋳造を蔵人信経に申す

  •  典拠『中右記』(「陰陽道の発見(山下克明)」)

997年 6月17日 一条天皇の仰せにより、東三条院へ見舞いのための行幸日時を晴明たちが勘申

  • 長徳三年六月十七日(ユリウス暦に換算して997年7月23日)東三条院への行幸日時(廿二日甲寅)を勘申 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p195より)
  • 一条天皇の仰せにより、東三条院へ見舞いのための行幸日時を晴明たちが勘申。行幸当日、反閉を奉仕する。 長徳三年(997)六月十七日・廿二日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 東三条院へ行幸あるにより日時・出門の方を選ぶ 典拠:権記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

997年 6月22日 晴明、一条天皇のため、反閇奉仕

  • 一条天皇のため、反閇奉仕 『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長徳三年六月廿二日(ユリウス暦に換算して997年7月28日)行幸に先立ち、南殿にて一条天皇のため反閇奉仕 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p195より)
  • 一条天皇の仰せにより、東三条院へ見舞いのための行幸日時を晴明たちが勘申。行幸当日、反閉を奉仕する。 長徳三年(997)六月十七日・廿二日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

998年        この二年間の具注暦は大春日栄種と賀茂光栄が作った

  • 村山修一の「日本陰陽道史話」によれば、この年と999年の二年間の具注暦は、大春日栄種と賀茂光栄が作ったことが明記されていると言う.(「陰陽師安倍晴明」p25 志村有弘)

999年 7月 8日 神祇官の大殿祭に際し、反閉を奉仕する

  • 神祇官の大殿祭に際し、反閉を奉仕する。 長保元年(999)七月八日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 長保元年七月八日(ユリウス暦に換算して999年8月21日)内裏北対への遷御に際し、一条天皇のため反閇奉仕 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p195より)●要検討?

999年 7月16日 一条天皇、御歯痛のため競馬を停止し、晴明に御占の日時を勘申させる

  • 晴明、一条天皇の歯痛について占う。権記(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 一条天皇の歯痛を占い、御祭の日時を勘申 『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保元年七月十六日(ユリウス暦に換算して999年8月29日)一条天皇の歯痛を占い、御祭の日時を勘申 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p195より)
  • 一条天皇、御歯痛のため競馬を停止し、御占の日時を勘申させる。 長保元年(999)七月十六日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

999年 9月 7日 晴明、穀倉院別当か。穀倉院預死去により藤原行成に後任の相談をする

  • 穀倉院別当(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保元年九月七日(ユリウス暦に換算して999年10月18日)この頃穀倉院別当か 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p196)注釈あり:穀倉院預の人事のことで藤原行成の許に行っていることから、この葫頃穀倉院別当の地位にあったものと判断した。
  • 晴明朝臣、穀倉院預死去により藤原行成に後任の相談をする。 長保元年(999)九月七日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

999年 9月16日 実資、賀茂光栄に占わせる

  • [9月14日から、実資?は、心が乱れ、熱が出ると言う事態になった.16日の明け方からいささか良くなったので、賀茂光栄に占わせたところ、求食鬼?(くじき)の祟りだという.そこで、さっそく、その夜、鬼気祭を行っている。]小右記(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)

999年10月13日 太皇太后昌子に対し遷御を占う

  • 長保元年十月十三日(ユリウス暦に換算して999年11月23日)御悩の太皇太后昌子に対し他所へお移りになるべきと占う 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p196)注釈あり:この件で晴明公の名が出てくるのは『小右記』十月十四日であるが「昨日」のことであるので十三日の日の方を記した。●要検討?
  • 10月14日太皇太后の遷宮の吉凶を占う 典拠:小右記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

999年10月14日 仰せにより晴明朝臣の御占が良く、再び勘文を下す(上記と同?)

  • 仰せにより晴明朝臣の御占が良く、再び勘文を下す。 長保元年(999)十月十四日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

999年10月19日 太皇太后の遷御先についての質問に答える。太皇太后御悩により晴明公・光栄を召す。

  • 長保元年十月十九日(ユリウス暦に換算して999年11月29日)太皇太后の遷御先についての質問に答える 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p196)
  • 太皇太后御悩により晴明公・光栄を召す。 長保元年(999)十月十九日(『小右記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 10月19日太皇太后の病により遷居の所を実検する 典拠:小右記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

999年11月 7日 晴明、防解火災祭の日時を勘申

  • 晴明、防解火災祭の日時を勘申。権記(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 防解火災祭日時勘申 『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保元年十一月七日(ユリウス暦に換算して999年12月17日)防解火災祭日時勘申 典拠:『権記』「安倍晴明公(晴明神社編)」p196
  • 晴明朝臣、防解火災御祭の日時を勘申、奉仕する。 長保元年(999)十一月七日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 防解火災御祭の日時を選び、かつ実施を命じられる 典拠:権記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1000年 1月10日 東三条院への放火についての占か

  • 長保?二年正月十日(ユリウス暦に換算して1000年2月17日)東三条院?への放火についての占か 典拠:『御堂関白記』?「安倍晴明公(晴明神社編)」p196)注釈あり:陽明文庫蔵の原本には、この部分が墨で消されていて、元の文章が読み取りにくくなっており、前後関係からこう判断した。

1000年 1月28日 晴明、女御彰子の立后の日時を勘申

  • 女御?彰子?の立后の日時を勘申 『御堂関白記』?「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保二年正月廿八日(ユリウス暦に換算して1000年3月6日)女御彰子の立后の日時を勘申 典拠:『御堂関白記』「安倍晴明公(晴明神社編)」p196
  • 女御彰子の立后の日時、晴明朝臣を召し勘申させる。 長保二年(1000)正月廿八日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1000年 2月16日 晴明、一条天皇の法興院行幸の日時を勘申

  • 一条天皇?法興院?行幸の日時を勘申 『御堂関白記』?「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保?二年二月十六日(ユリウス暦に換算して1000年3月24日)一条天皇の法興院行幸の日時を勘申 典拠:『御堂関白記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p196)
  • 一条天皇の法興院行後の日時を勘申する。長保二年(1000)二月十六日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1000年 5月13日 晴明、従四位下

  • 従四位下 『平安遺文』?「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保?二年五月十三日(ユリウス暦に換算して1000年6月17日) 従四位下 典拠:『主税寮出雲国正税返却帳』?「安倍晴明公(晴明神社編)」p196)
  • 晴明公、従四位下 長保二年(1000)五月十三日(『主税寮出雲国正税返却帳』承暦二年(1078)12月31日)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 当年の位禄三六〇斛九斗六升を支給される 典拠:平安遺文一一六一号(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1000年 8月18日 晴明・光栄、一条天皇の新内裏還御の日時勘申

  • 晴明、一条天皇?の新内裏還御の日時勘申『権記』?「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保二年八月十八日(ユリウス暦に換算して1000年9月18日)(「安倍晴明公(晴明神社編)」p197)
  • 陰陽寮ならびに晴明公、光栄に還宮の日時を勘申させる。長保二年(1000)八月十八日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1000年 8月19日 晴明、藤原行成の宿所における物怪について占う

  • 長保二年八月十九日(ユリウス暦に換算して1000年9月19日)藤原行成の宿所における物怪について、式占(指年法)により口舌・病事がおきる生まれ年の人を占うか 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p197) 注釈あり:『占事略決』(京都大学図書館蔵)には、指年法として、病事、口舌のことが記されている。
  • 藤原行成の宿所に物怪あり、占う。 長保二年(1000)八月十九日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1000年(長保二年) 晴明、織部司の御服機を立てるため方忌の上申を命じられる

  • 八月一九日?典拠:『権記』 (「陰陽道の発見(山下克明)」)

1000年10月11日 晴明、一条天皇の南殿出御に際し、反閇奉仕

  • 一条天皇のため、反閇奉仕『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保二年十月十一日(ユリウス暦に換算して1000年11月9日)「安倍晴明公(晴明神社編)」p197
  • 一条天皇の南殿出御に際し、晴明朝臣反閉を奉仕する。 長保二年(2000)十月十一日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 天皇の一条院内裏出御および新造内裏入御に際し反閇を行う 典拠:権記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1000年10月21日 内裏造営に際し、五十人が叙位、晴明、その位記を読誦

  • 内裏造営に際し、五十人が叙位、その位記を読誦 『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保二年十月廿一日(ユリウス暦に換算して1000年11月19日) 内裏造営に際し、五十人に叙位がなされ、その位記を読唱した 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p197)
  • 中宮における叙位議に晴明朝臣、式部大輔代をつとめる。 長保二年(1000)十月廿一日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1000年12月16日 相次ぐ邪霊の出現で(晴明公を)召して修法の日を検討する

  • 相次ぐ邪霊の出現で(晴明公を)召して修法の日を検討する。 長保二年(1000)十二月十六日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1001年        晴明、大膳大夫(~1002年)

  • 大膳大夫(~1002年) 『諸祭文故実抄』 (「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)

1001年 6月20日 晴明、東三条院の(東宮の?)御悩消除のため、一万不動像供養の日時を勘申する。同時に一宮の真菜始日時も勘申

  • 東宮の病平癒のため日時を限って一万不動像を供養すべきと勘申。同時に一宮の真菜始日時も勘申 『権記』 (「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保三年六月廿日(ユリウス暦に換算して1001年7月13日) 東宮の病平癒のため、去年の東三条院御悩の際と同様に、日時を限って一万不動像を供養すべきと勘申。また、同日、一宮の真菜始の日時も勘申 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p197)注釈あり:東三条院詮子は、しばしば御悩に苦しんでいるが、この前後にはそういった記録は他になく、この時期に御悩に苦しんでいたのは東宮であり、晴明公は、そのため一年前の東三条院の事例を挙げて、対処の方法を勘申したものと判断した。
  • 東三条院の御悩消除のため、一万不動像供養の日時を勘申する。 長保三年(1001)六月二十日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 東三条院詮子の病気平癒のために行う一万不動像供養と、敦康親王の真菜始めの日時を選ぶ 典拠:権記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1001年閏12月17日病身の東三条院詮子の東院第への渡御につき晴明公、賀茂光栄・県奉平と共に占い、不可とする

  • 病身の東三条院詮子の東院第への移住を不可とする 『権紀』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保三年閏十二月十七日(ユリウス暦に換算して1002年2月2日)病身の東三条院詮子の、行成の東院第への移住を占い、不可と申す 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p197)
  • 一条天皇、東三条院へ行幸のあと女院落飾され、ついで行成第に渡御につき晴明公、賀茂光栄・県奉平と共にその可否を占う。 長保三年(1001)閏十二月十六日、十七日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1001年閏12月23日東三条院御葬送の雑事につき晴明公・光栄・奉平を蔵人所に召し勘申

  • 東三条院詮子の御葬の雑事について勘申 『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 東三条院御葬送の雑事につき晴明公・光栄・奉平を蔵人所に召し勘申する 長保三年(1001)閏十二月廿三日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1001年閏12月24日東三条院薨去により追儺停止、従四位下晴明公の私宅で追儺を行う

  • 長保三年閏十二月廿四日(ユリウス暦に換算して2002年2月9日)従四位下晴明公の私宅で追儺を行う 典拠:『政治要略』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p197)
  • 東三条院薨去により追儺停止、晴明公私宅にて行う。 長保三年(1001)閏十二月廿四日(『政治要略』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1001年閏12月29日 散位従四位下安倍朝臣晴明

  • 政事要略の長保三年閏12月29日の項に散位従四位下安倍朝臣晴明と記されており、当時すでに晴明は陰陽寮の役人の職を退いていたと思われる.(「陰陽師安倍晴明」p25 志村有弘)
  • 散位。諒闇により追儺は停止されるも、晴明私宅にこれを行う 典拠:政事要略・小記目録(「陰陽道の発見(山下克明)」)*こちらでは、29日に書いてある.上記とは日付が違う?しかし、追儺をするのは年末では?

1002年        晴明、左京権大夫(~1004年)

  • 晴明、左京権大夫(~1004年)『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保四年~寛弘元年(ユリウス暦に換算して1002年~1004年)左京権大夫 典拠:『権記』 (「安倍晴明公(晴明神社編)」p198)

1002年 3月19日 諸道と共に晴明公等、内裏に頻りに火事有るにより勘申

  • 長保?四年三月十九日(ユリウス暦に換算して1002年5月4日)最近、禁中にしきりにおこる火事及び朱雀門?玄武門?などの宮城門舎の由縁について勘申 典拠:『権記』?「安倍晴明公(晴明神社編)」p198)
  • 諸道と共に晴明公等、内裏に頻りに火事有るにより勘申する。 長保四年(10002)三月十九日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1002年 4月10日 晴明公従四位下、子息吉平従五位下

  • 長保四年四月十日(ユリウス暦に換算して1002年5月24日)従四位下、嫡男吉平従五位下 典拠:『主税寮出雲国正税返却帳』? (「安倍晴明公(晴明神社編)」p198)
  • 晴明公従四位下、子息吉平従五位下 長保四年(1002)四月十日(『主税寮出雲国正税返却帳』承暦二年(1078)12月30日)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 位禄料三六〇斛九斗六升を支給される 典拠:平安遺文一一六一号(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1002年 7月27日 大膳大夫安倍朝臣、天変により一条天皇のため、玄宮北極祭執行

  • 一条天皇?のため、玄宮北極祭執行 (青紙に朱書する)『諸祭文故実抄』?「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保?四年七月廿七日(ユリウス暦に換算して1002年9月6日)一条天皇?のため、玄宮北極祭執行 (青紙に朱書する)。この頃大膳大夫? 典拠:『諸祭文故実抄』?「安倍晴明公(晴明神社編)」p198)
  • 天変により大膳大夫安倍朝臣、玄宮北極祭を奉仕する。 長保四年(1002)七月廿七日(『日月多出例』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1002年11月 9日 行成、晴明朝臣に太山府君、泰平宿禰に招魂祭を奉仕させる

1002年11月28日 行成、左京権大夫晴明朝臣の説により泰山府君祭の料として、幣・紙・銭等を奉る

  • 長保?四年十一月廿八日(ユリウス暦に換算して1003年1月3日)行成?泰山府君?に対し、延年のため幣一捧、帋・銭を奉るよう説く 典拠:『権記』? 「安倍晴明公(晴明神社編)」p198
  • 行成、左京権大夫晴明朝臣の説により泰山府君祭の料として、幣・紙・銭等を奉る。 長保四年(1002)十一月廿八日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 行成、晴明の説により日出に泰山府君に紙銭を奉る 典拠:権記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1003年 8月21日 晴明、一宮の病の原因を占い、邪気があると答申する

  • 一宮の病の原因を占い、邪気があると答申する 『権記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 長保五年八月廿一日(ユリウス暦に換算して1003年9月19日) 一宮の病の原因を占い、邪気があると答申する 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p198)
  • 一宮敦康親王の御悩により、晴明公邪気を占う。 長保五年(1003)八月廿一日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1004年 2月19日 晴明・光栄、木幡三味堂建立の地を相す

  • 木幡三味堂建立の地を相す 『御堂関白記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 十九日。癸酉。木幡三昧堂?*1を立つべき所を定めんとす。彼の山辺に到るに、鳥居の北の方より河出づ。其の北の方に平らかなる所有り。道の東なり。晴明朝臣・光栄朝臣等の定なり。還り来たる次いでに法性寺に入り、所々の修理を見る。当時の別(当)、能治と云ふべし。春宮大夫の堂に木工等有り。家に還る。南門より入る。人々、馬を馳す。右大将、大内に侯じ、奉幣使を定む、と云々。。(御堂関白記全註釈 寛弘元年(山中裕編) )
  • 寛弘元年二月十九日(ユリウス暦に換算して1004年3月12日) 木幡三昧堂建立の地を相す 典拠:『御堂関白記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p198)
  • 道長、木幡三昧堂建立の地につき晴明朝臣・光栄等を定める。 寛弘元年(1004)二月十九日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 藤原道長に従い木幡に向かい、三昧堂建立の地を定める 典拠:御堂関白記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1004年 2月26日 行成、庚辰日に三宝へ奉仕することの吉凶を、左京権大夫安倍晴明公に勘申する

  • 三方吉日?についての吉備真備の説を正説と答える 『権記』 (「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 寛弘元年二月二十六日(ユリウス暦に換算して1004年3月19日) 三宝吉日?についての吉備真備の説を正説と答える 典拠:『権記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p199)
  • 行成、庚辰日に三宝へ奉仕することの吉凶を、左京権大夫安倍晴明公に勘申する。 長保六年(1004年)二月廿六日(『権記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1004年 6月18日 道長頼道の乳母死去により、晴明・賀茂光栄の占いで、藤原道長が賀茂詣を延期

  • 晴明・賀茂光栄の占いで、藤原道長賀茂?詣を延期 『御堂関白記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 十八日 辛未 天晴る。来たるべき二十日、賀茂(詣)。而るに、少将の乳母の中将昨日死去す。是産次なり。而るに、下女等徃問の間、指したる事に非ずと雖も、不浄の恐れ有るに依りて、晴明、光栄等を召して、占はしむる。申して云はく、不浄の気有り、と云々。仍ち延引す。(御堂関白記全註釈 寛弘元年(山中裕編) )
  • 寛弘元年六月十八日(ユリウス暦に換算して1004年7月8日)晴明・光栄の占により、道長が賀茂詣を延期 典拠:『御堂関白記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p199)
  • 道長頼道の乳母死去により賀茂詣の可否を晴明公・光栄に占わしめ延引する。 寛弘元年(1004)六月十八日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1004年 6月20日 晴明の滅門日との進言により、道長が造仏を延期

  • 晴明滅門日?との進言により、道長が造仏を延期 『御堂関白記?』(「安倍晴明伝説?(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 20日 癸酉。天晴る。内に参る。夜に入りて退出す。仏を作り奉らんとするに、晴明申して云はく、今日滅門日なり。宜しからず、てへり。留め了んぬ。(御堂関白記全註釈 寛弘元年(山中裕編) )
  • 寛弘元年六月廿日(ユリウス暦に換算して2004年7月10日) 晴明の滅門日との進言により、道長が造仏を延期 典拠:『御堂関白記』 (「安倍晴明公(晴明神社編)」p199)
  • 道長、晴明公の滅門との指摘により造仏を停む。 寛弘元年(1004)六月廿日()『御堂関白記』(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1004年 7月14日 晴明、五龍祭執行により夜から大雨が降る。被物を賜る

  • 五龍祭執行により夜から大雨が降る『御堂関白紀』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 十四日、丙申。終日陰る。時々微雨下る。夜に入りて、大雨有り。右頭中将、仰せて云はく、晴明朝臣、五龍祭を奉仕するに、感有り、被物を賜ふ、と云(々)。早く賜ふべきなり。雷声小さきなり。(御堂関白記全註釈 寛弘元年(山中裕編) )
  • 寛弘元年七月十四日(ユリウス暦に換算して1004年8月2日)五龍祭執行により夜大雨が降る 典拠:『御堂関白記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p199)
  • 晴明朝臣、五龍祭奉仕のところ大雨降り被物を賜る。 寛弘元年(1004)七月十四日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?
  • 五龍祭を行ない、降雨あるにより賞せられる 典拠:権記(「陰陽道の発見(山下克明)」)

1004年 8月22日 晴明公・光栄の占筮により中宮彰子の大原野社行啓を延引

  • 寛弘?元年八月廿二日(ユリウス暦に換算して2004年9月9日)占筮により中宮彰子?の大原野社行啓を延引 典拠:『御堂関白記』?「安倍晴明公(晴明神社編)」p199
  • 中宮、大原野社行啓につき晴明公・光栄の占筮により延引する。 寛弘元年(1004)八月廿二日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1004年 9月25日 晴明、23日に起こった多武峰の墓の鳴動について占う

  • 23日に起こった多武峰?の墓の鳴動について占う 『御堂関白記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 二十五日、丙午。天晴る。早朝内裏に参る。未の時許りに内より罷り出づ。多武峯、去ぬる二十三日に御墓鳴る恠異の事を申す。晴明朝(臣)を召して卜せしめ、年に当たる上達部の許に卜方を送る。(以下略)(御堂関白記全註釈 寛弘元年(山中裕編) )
  • 寛弘元年九月廿五日(ユリウス暦に換算して1004年10月11日) 晴明に去る二十三日の多武峰の墓の鳴動について占わせる 典拠:『御堂関白記』 (「安倍晴明公(晴明神社編)」p199)
  • 多武峯鳴動により晴明朝臣をして卜せる。 寛弘元年(1004)九月廿五日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1004年12月 3日 道長のため、大僧都と共に晴明公・光栄・昌平たちも祭を執行(~5日)

  • 大僧都が道長邸で大般若、観音供養を行い、晴明も祭を執行 『御堂関白記』 (「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 三日、壬午。天晴る。大般若并びに観音(経)を土御門に於いて供養す。請僧三十口。定澄大僧都を以て講師と為す。事了りて、僧に疋(絹)を施す、各差有り。今日より三日、読むべきなり。晴明・光栄・昌平等、祭りを為す。入拝の上卿、春宮大夫・右大将・右衛門督・中宮権大夫・勘解由長官・春宮権大夫・左大弁・右大弁・大蔵卿・修理大夫・三位中将等なり。殿上人二十人許り来たる。僧の布施を取るは殿上人等なり。 (御堂関白記全註釈 寛弘元年(山中裕編) )
  • 道長のため、晴明公・光栄・昌平たち祭りを為す。 寛弘元年(1004)十二月三日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1005年 2月10日 晴明、道長が東三条新第に移る際の新宅作法を行う定刻に遅れる

  • 寛弘二年二月十日(ユリウス暦に換算して1005年3月22日)道長が東三条第に移る際の新宅作法を行う定刻に遅れる『御堂関白記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p199)
  • 道長、東三条新第へ移るに際し、陰陽師晴明、新宅作法に遅参 寛弘二年(1005)二月十日(『御堂関白記』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1005年 3月 8日 晴明、中宮彰子の大原野社行啓に際して反閇を行う

  • 中宮彰子、大原野社に参詣するため、晴明、反閇を行う.『小右記』(「陰陽師安倍晴明」志村有弘)
  • 中宮のため、反閇奉仕 『小右記』(「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 寛弘二年三月八日(ユリウス暦に換算すると1005年4月19日)中宮の為、反閇奉仕 典拠:『小右記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p200)
  • 中宮の大原野社行啓に際して晴明公反閉を奉仕する。 寛弘二年(1005)三月八日(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1005年 9月26日 安倍晴明公逝去 享年85歳

  • 死亡 『土御門家記録』?「安倍晴明伝説(高原豊明)」安倍晴明年表)
  • 寛弘二年九月二十六日(ユリウス暦に換算して2005年10月31日)卒去 典拠:『土御門家記録』?「安倍晴明公(晴明神社編)」p200)
  • 『陰陽家系図』?(宮内庁書陵部蔵)には、寛弘?二年十二月十六日と記されている。(「安倍晴明公(晴明神社編)」p201)
  • 安倍晴明公、寛弘二年(1005)九月廿六日死去 享年八十五歳(『土御門家家伝』)(「安倍晴明公の史料」(嵯峨井建)『安倍晴明公(晴明神社編)』)?

1005年(寛弘二年)12月16日 晴明没す

  • 典拠:『書陵部所蔵陰陽家系図』(「陰陽道の発見(山下克明)」)
  • 『陰陽家系図』?(宮内庁書陵部蔵)には、寛弘?二年十二月十六日と記されている。(「安倍晴明公(晴明神社編)」p201)

1007年        具注暦の制作について

  • 村山修一「日本陰陽道史話」?によれば、この年(寛弘四年)より六年までの具注暦は、中臣義昌?賀茂守道?が作ったことが明記されていると言う.(「陰陽師安倍晴明」p25 志村有弘)

1007年        安部晴明神社創建

  • 安倍晴明神社?創建 国立文楽劇場企画展示 芦屋道満大内鑑?~安倍晴明の伝説~H13.4月7日~5月15日 パンフレット

1007年        晴明神社創建

  • 京都の晴明神社創建
  • 時の帝、一条天皇?が公の御偉業甚だ尊きに拘はらず位階低位にして、また晴明公?稲荷大神?の御分霊なりとの由にて、御鎮霊の勅旨をもって創建された.(晴明神社由緒書)

1009年(寛弘6年)藤原道長・彰子ら呪詛される.首謀者に仕えていた陰陽師の中に「僧道満」の名あり。

  • 1009年(寛弘6年)藤原道長・彰子ら呪詛される.首謀者に仕えていた陰陽師の中に「僧道満」の名あり。(『安倍晴明と陰陽道展』図録)

1015年        賀茂光栄 没

1022年 7月14日       法成寺の金堂供養。日本紀略

  • 法成寺の金堂供養。日本紀略 「陰陽師安倍晴明」志村有弘

1035年(長元8年)安倍章親(あきちか)が天文博士・安倍奉親(ともちか)が権天文博士在任。以後、安倍氏が正・権天文博士を独占。

  • 1035年(長元8年)安倍章親(あきちか)が天文博士・安倍奉親(ともちか)が権天文博士在任。以後、安倍氏が正・権天文博士を独占し、1870年(明治3年)の陰陽寮廃止まで続く. (『安倍晴明と陰陽道展』図録)

1168年 6月22日 賀茂在憲・安倍泰親の上奏により六条天皇方違え

  • 仁安三年(1168)6月22日、六条天皇が金神七殺を避けて方違えを行ったのは、当時の陰陽博士である賀茂在憲と安倍泰親の上奏によるものだった。(金井徳子「金神忌の発生」、『陰陽道叢書1』名著出版、1993年)(『安倍晴明の一千年』田中貴子)

*1 後の浄妙寺の中心となる建物。本条はその初見史料。

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Last-modified: 2011-10-04 (火) 21:00:14 (3635d)